菓子箱

新訳 すこやか生活

隙あらば自分語り

魂の容れ物

先日、攻殻機動隊(1st)を観た。

作中でキーとなる「義体化(身体の電脳化)」を通して、「個の存在」について考える。

私は以前から「概念になりたい」と思っているが、ニュアンスとしては「精神だけの存在」に近いイメージだ。生命の容れ物である身体が精神を阻害するという自壊状態がどうしようもなくつらいからである。思考することやその精神性こそが"身体"であればいいのにと思う。

ところが、"個"は精神だけの状態で"個"を保てるのか?という話である。物語終盤、「殻を棄てた意思が、ネットの海で個を維持できるとは考えにくい」という台詞があり、うーーーんなるほど、言われてみればたしかに。となった。

例えばデジタルでどれだけ"個"にすべく情報の集合を作ったとしても、それはどこまでいっても"個に寄せたデータ"にしかならないように思う。(逆に、そのデータをきちんと容れ物に入れれば、"個"は成り立つと思う。タチコマがまさにそういうイメージ。)

どこかに物理的存在の影が残っていなければ、どれだけ大層な精神を持ち得ようと(持ってないけど)、私は私としては存在できないのだろう。容れ物がなければ輪郭が見えない、容器に入らないと水はまとまらない、そんなイメージだろうか。

まぁいずれにせよ現実問題この命をマックスに使い切るとして、その間にそれを選択できるレベルにまで人類が至ってるともまず思えないのだけど。倫理的な話もあるしね。

でももしできたら、もしこの世界の中に私がいたら、私はどんな選択をするのかな?どんな可能性を模索するかな?って考えるのは楽しい。私はこの世界線にいたら義体化をするのだろうか‥。

 

PSYCHO-PASSが好きで、その流れで攻殻機動隊に辿り着いたのだけど(作順的には逆だけれど)、そういえば最初タチコマとコミッサちゃんにシンパシーを感じていた。が、後半まで見ると全く違ったものだとわかる。終盤のタチコマ回が作中で1番感動した。"個"を考えるにあたって、タチコマという存在もまた素晴らしい要素になっていたなぁ。

 

なんていうか、身体という物理存在に精神削られなくなるためには身体の状態を良くしなきゃいけないって構造、バグだよなぁ。と思いつつ、そもそも個々を平等にしなきゃいけないなんてルールがまず存在しないので、まぁ結局、どうしようもないという。人1人の人生なんて壮大な輪廻の中のほんの一瞬でしかないんだな。それなのにこんな必死こいて生きようとしちゃって、人間ってかわいいしなんてエネルギッシュな存在なんだろうね。

仮に人を全員同じスタートラインに並べるとしたら‥なんてことも想像したけど、それではどう考えてもこんなに種として栄えることは出来なかっただろうし、そろそろ話が壮大なスケールになってきて宇宙猫状態になりそうなのでやめます。

 

暖かくなりかけたタイミングで一度ドカ雪が降って冬が終わるように、ここ数日のぶり返しサマー感も最後の一仕事かしら。秋服が1番好きなのに今年もあんまり着れなそうだ。しゅん。

今週もほどほどにがんばろうね〜!