菓子箱

新訳 すこやか生活

隙あらば自分語り

あの田んぼ道

亡くなった祖父母の家の近くには、だだっ広い田園風景があった。

目の前に遮るものが何もない風景というのは、それはそれで空間の圧力のようなものを感じる。自分より背の高いものがないから、漠然と不安になる(なんというか、狙撃手に狙われているかのような、自分の存在感がハッキリと出ていることに対する落ち着かなさのようなもの)。

建物のデザインだとか、看板の文字だとか、そういう視覚情報が少ないから、子供の頃からあの田んぼ道を歩く間はいつもいろいろなことを考えたし、今だに強く記憶に残っているものもある。

早朝に生前の祖母と犬の散歩に出たとき。ずんずん前を行くゴールデンレトリバーの金色の尾っぽを眺めながら「年に2度しかここに来られない私は、あと何回こうして散歩ができるのだろう。」って思っていつか必ず来る未来に悲しくなったこと。

かなり田舎だから最寄りのコンビニが最寄りと言うのも憚られるような距離で、弟と2人田園のど真ん中をママチャリ乗って歌いながら走り抜けたこと。そのときの選曲が何故かカブトムシだったこと。2人ともサビしか知らなかったのに。あのときのぬるい風はすごく気持ちよくて、なんか漫画みたいだ〜!って感動したこと。

その田んぼでは夏になると天然の蛍に会えたけれど、いつかの夏に水路の工事が入ってからはほとんど出会えなかったこと。

犬が亡くなり、祖母が亡くなってからも、時間ができるとなんとなくあの場所へ散歩をした。行くたびに理由なく同じ道を歩いた。祖父が亡くなった夏は多忙だったが、急ぎ足ながらもその景色を記憶にとどめに行き、少々物思いに耽るなどした。

時は淡々と刻まれ続け、いつか必ず来る未来は、違わずしっかりやって来たし、私は大人になった。

1番古い記憶で畑だった場所は早い段階で公園になって、最初は少し寂しかったけどすぐに慣れてブランコに乗った。

あの田んぼ道だってこの先いつまであるかわからない。少しずつ果物畑は減り、更地が増え、そこに新しい家が建ち始める。家の窓から見える景色の中だけでも、ここ数年で時代や世代が入れ替わっていく瞬間をまざまざと感じた。でも、あの頃の記憶はずっと変わらず同じ席に座っている。

鮮明に残る記憶というのは何でかこういう何の意味もなさそうな瞬間ばかりで不思議だが、もっと不思議なのは実際そこにいたとき、なんとなく漠然と「あぁ、これは忘れない記憶だろうな」ってわかってたこと。

そんな風に思える瞬間に、残りの人生であといくつ出会えるのだろう。そして誰かのそんな瞬間に私がいられるなんてこともあるのだろうか。

生きる理由を他者に依存したくないとは思うけれど、でも結局は見てくれる存在、知ってくれている存在がいるから自分が自分でいられるというのもまた真理と思う。1人でいるのがつらくないのも、私をわかって気にかけてくれる人がいるからだ。

 

"何でもないようなことが幸せだったと思う"ってのは、歳重ねるほどに頷きのヘドバンだ。そういう些細な瞬間の積み重ねが今の自分の1番下の土台になるのだ。

頼りない土台には何を積んでもいつか崩れてしまうから、雑に見過ごしていい瞬間なんてきっとない。楽しかった日も、死にたかった日も、悔しかった日も、怒り狂った日も、この身から出る感情をひとつもテキトーにあしらいたくない。

次あの田んぼ道に立つときまでに、どれだけ積み上げられるだろう。がんばる。

 

ps

よく言う「東京の空は狭い」とか言うやつ、長く都内暮らししたあと田舎に帰るとめちゃくちゃわかる。恐らくはポエマーwって突っ込まれるセリフだが、まじで思う。田舎の空でっかくてびっくりする。